No.426
2008-12-21
2人の恩人との別れ
495 「さすらいの舞姫」
494 船の旅・考
493 「キャタピラー」
492 急がば回れ!
491 三浦哲郎の歳月
490 未完絶筆 良寛
489 女優というもの
488 「クロッシング」
487 ペシャワール会 中村哲
486 独楽吟
485 6月15日に考える
484 究極の分かち合い
483 思い出袋
482 浦河べてるの家2
481 経営者人材
480 「茜色の空」
479 「嗚呼 満蒙開拓団」
478 追悼・井上ひさし
477 ホスピス・ものがたりの郷
476 拉致家族会
475 ものがたり診療所
474 実朝忌
473 地域金融
472 日韓併合100年
471 「逝かない身体」
470 春近し
469 みすず書房
468 イサム壮行会
467 労働市場の改革を!
466 天上大風
465 ベーシックインカム
464 捨てる心地よさ
463 「カティンの森」
462 回想の魔術
461 ノンエリートの社会空間
460 「普天間」を乗り切る
459 光州の記憶
458 死者よ来たりて
457 ビジネス・インサイト
456 率直な疑問
455 自己愛に沈む若者
454 続・演劇の力
453 演劇の力
452 「こどものその」
451 農業政策の分岐点
450 抱きしめたい8月
449 “こころ”という代物
448 不良少“女の一生”
447 湯布院と博多祇園山笠
446 男おひとりさまの老後
445 ふるさときゃらばん公演
444 名古屋市に注目!
443 トップ人事と秘話
442 バロン・サツマ
441 「グラン・トリノ」
440 「パンデミック」
439 後輩X君へ
438 すべてが廃虚に
437 「法然と親鸞」
436 「ムサシ」
435 ヒトを選ぶ
434 闇社会・京都の影
433 笑うしかないか
432 ラジオと映画
431 通訳から作家へ
430 「生き急ぐ」内村剛介
429 携帯を忘れた旅
428 1枚の賀状から
427 “がん”からの生還
426 2人の恩人との別れ
425 育英基金構想
424 レッドクリフ
423 アパの真相
422 無冠の車椅子
421 画家 木下晋
420 科学者たちの楽園
419 救急精神病棟
418 紅とんぼ
417 極道記者
416 機先を制する
415 新・脱亜論
414 浜口陽三・南桂子
413 朝の靴音
412 “友川カズキ”を贈る
411 コンベンションビジネス
410 キューバ
409 信長
408 横付けサービス
407 脱・脱ダムと新幹線
406 ポスト消費社会
405 黒山もこもこ
404 ふり返る勇気
403 吹田事件
402 伏木・没落旧家
401 「じゃあな」




 ひとりの恩人は幸運を運んでくれた。待ち焦がれた原稿が届いたのは、05年8月23日。専用の便箋に、使いこなされた万年筆でしたためてあった。拙著「ゆずりは通信」の帯にする推薦文。依頼したのが同月11日で、100枚近いゲラコピーを同封したのだが、日を置かずに目を通して、書き上げてもらったことになる。決して親しい関係でなく、しかも無名素人で初めての自費出版。いま思うと、冷や汗が出る。図々しい、そんな時間はない、と一蹴されるはずであった。ところが思いもかけない懇切な対応をして貰ったうえに、「地に足のついた教養人の観察をお楽しみあれ!」という過分なもので、これで売れ行きが全く違いますよ、と印刷屋の社長がポンと背中を叩いてくれた。1500部をほぼ売り切り、次なる展開への大きな弾みとなったことは間違いない。こうした幸運はすべて“この人”がもたらしてくれたといっていい。その後も、恩着せがましいことは一切なく、品格というのは“この人”の所作を指すと思っている。
 12月19日、東京はグランドプリンスホテル赤坂で、筑紫哲也“この人”のお別れ会が開催された。小澤征爾が前の列にいて、ちょい後には立花隆がいる。有名無名を問わず列をなしている爽やかさがいい。気持ちよく献花ができた。記帳ノートには、田勢康弘が「筑紫スピリットを継承していきます。力不足ですが」と記しており、その後に続けることになった。「森のゆめ市民大学開設に際しては、助言ばかりか学長まで引き受けていただき、そして私事では、拙著に過分な推薦文をいただきありがとうございました。筑紫さんの最も嫌う“論”の専制に抗う側に立つことで、恩返しとさせていただきます」。
 会場構成は、左手で頬杖をついた得意のポーズの遺影など3枚の写真が飾られた祭壇、朝日新聞の採用通知に始まり、闘病中の鹿児島で桜島をバックにした家族写真までの記念写真コーナー、多事争論のビデオコーナーには記帳用便箋が机の上に用意されていた。筑紫夫人がその中で、一言お悔やみを述べたいという長蛇の客の対応に汗だくの様子であった。
 いまひとりだが、97歳の父である。明治の男も16日午後4時08分、遂に力尽きた。偽膜性腸炎が完治せず、経口からの食事摂取にこだわったターミナルケアを選択していたが、穏やかな最期であった。拘束されての病院での治療を避け、しかも母親もそばにいるという選択は正しかったと思う。それなりの心構えをしていたので、戸惑う事もなかった。葬儀は18日となり、弔うのは家族だけでいいとし、新聞の訃報欄への掲載も断った。この年齢になると、友人知人はすべて他界しているので、世間に知らせる人がいない。また認知の進んだ母親への対応からも、そう考えていた。父の死がまだ認識できないこともあり、感情の起伏がそのまま出てしまう。親族であれば、どんな事があっても許されるし、久方ぶりの面会も心置きなくできる。まして葬儀場ではなく、実家の自宅であるのが安心感をもたらしてくれるとの判断である。
 一方で、11年前の亡妻の時には、葬儀無用戒名不要をつらぬくことが出来たが、今度はそうはいかない。父は、菩提寺である新湊・曼陀羅寺で檀家総代をやっていたのだ。そこで行われる浄土宗の教えを相伝する五重相伝を三度も体験し、昭和31年に法名「智誉精進願海居士」を得ている。信心深いとは思えなかったが、聞きなれたお経はやはり欠かせない。棺を男の孫4人で担がせるのが、最大の供養と考えていたので、在京の2人には必ず来るように伝え、4人が軽々と担いでくれた時は、うれしく思えた。
 18日に父の葬儀を決めると、迷うことなく翌19日の上京も心に決めた。死者は生きているものを煩わさせない!死せる日からは、生ある者の日程が優先される。これをわが家訓としたい。姉もこの両親から引き継いだ衣料品店の「歳末バーゲンセール」を19日から再開した。他人がどう云おうと、わが家のやり方である。
 気になったのは、「おくりびと」の影響なのか、納棺が丁寧過ぎて、技巧に走り過ぎではないかと思われたこと。さて、自らの弔いだが、「花一輪といえども」(?354参照)固辞する、でやってほしいものだ。

302364