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彼女の家は、中心商店街からちょっと外れた元の市民病院前にあった。隣は山小屋という喫茶店で、代書屋、寿司屋が並んでいる。格子戸のある小さな和風のたたずまいで、表札の反対側に、琴三弦教室という小さな看板が掛かっていた。清明堂書店はその商店街の入口にあり、行き帰りに、ここがあいつの家か、と確認していたものだが、06年に取り壊された。背は低かったが、とかくの噂に彩られていた。タバコも吸っていたし、上級生の男子とよく歩いてもいた。早熟であったのだろう、同級生を子ども扱い視する風でもあった。不良といわれようと、何ら臆することがなかった。
彼女の眼には、どんな風に映っていたのであろうか。野暮で、度胸もなく、せこせことしたダサい高校生であったことは間違いない。“ふん”と見向きもされなかった。
そんな彼女の音信といえば、東京藝術大学音楽部邦楽科を出て、上野・鈴本で出囃子をやっている、というくらい。ところが亡くなった同級生Hと新宿で痛飲した時、これから彼女の家に繰り出すといって、タクシーに乗り込んだ。Hは淀みなく、「環七通りを代田へ」と云う。初めてではないのか、と関係を訝ったが、その時は不在であった。多分社会人になって間もなくの昭和45年の頃だったと思う。
そんな彼女と、何と45年ぶりの再会である。小柄な人間は年を取らないようだ。経緯はさておき、さりげなく公演のチラシを差し出してくる。「インターナショナル邦楽の集い」とあり、英訳もついていて、写真には外国人が着物姿で、小鼓を打ち、三味線を手にしている。外国の若者に、三味線などを教える会を主宰して16年になり、フォーマルな公演はこれで9回目を迎えるという。
「昔の私からは想像できない生き方でしよう」。高校卒業までが幸せの人生チャプター1。東京に出て来てから約40年のチャプター2は、打って変わって苦しく、卑屈な思いを抱え込んで耐え忍ぶものだった。結婚し、ふたりの子を授かったが破綻して、ひとりで子育てに狂奔した。その後父親の介護が加わり、富山の老健、横浜・川崎のグループホーム、近くの療養型病院と、意識レベルが低いまま入院が続いている。それでも三味線だけは手放さず、私の苦しさを慮って月謝はいらないという先生に甘えて、20年以上も稽古を続けさせてもらった。その恩返しという意味から、外国の人に日本の伝統文化を教えたいと思ったのかもしれない。実際は大変で、当日キャンセルが多く予定が狂ったり、三味線が盗まれたり、また手元にある13丁の三味線、6調の小鼓、4巻の太鼓などの維持費が馬鹿にならない。コンサートというもののスポンサーがつくわけでもなく、チケットを手分けしてやっとのことで売り捌いても、持ち出しは必至。なによりも協力して出演してもらう方にお礼もしてあげられないのが申し訳なく、苦痛でもある。そんなこともあり今回で最後にしようと思っている。
そういえば、04年邦楽とは全く関係のない病院勤務を辞めてから、チャプター3が始まったのかもしれない。介護のための早期退職だったが、何となく自由な心が取り戻せたし、こうして昔の友人に会う事に、ためらうこともなくなった。
あえて不良少女といってしまったが、生きるエネルギーが他の何倍もあったからだろう。インド仏教では人生を学生期(春)、家住期(夏)、林住期(秋)、遊行期(冬)というらしいが、林住期にようやく辿り着き、チャプター4の遊行期がまだ待っているということ。それはもちろん邦楽三昧の日々になることは間違いない。そんな彼女の一生を傍らで見てきた三味線が、彼女の撥さばきでどんな音を奏でるのか、しみじみと聞いてみたいと思う。
そしていつの間にか、高校旧31ホームの同窓会が、11月15日東京・三田の元神明宮で開催される「インターナショナル邦楽の集い」に合わせて、開かれることになった。
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