No.458
2009-10-24
死者よ来たりて
494 船の旅・考
493 「キャタピラー」
492 急がば回れ!
491 三浦哲郎の歳月
490 未完絶筆 良寛
489 女優というもの
488 「クロッシング」
487 ペシャワール会 中村哲
486 独楽吟
485 6月15日に考える
484 究極の分かち合い
483 思い出袋
482 浦河べてるの家2
481 経営者人材
480 「茜色の空」
479 「嗚呼 満蒙開拓団」
478 追悼・井上ひさし
477 ホスピス・ものがたりの郷
476 拉致家族会
475 ものがたり診療所
474 実朝忌
473 地域金融
472 日韓併合100年
471 「逝かない身体」
470 春近し
469 みすず書房
468 イサム壮行会
467 労働市場の改革を!
466 天上大風
465 ベーシックインカム
464 捨てる心地よさ
463 「カティンの森」
462 回想の魔術
461 ノンエリートの社会空間
460 「普天間」を乗り切る
459 光州の記憶
458 死者よ来たりて
457 ビジネス・インサイト
456 率直な疑問
455 自己愛に沈む若者
454 続・演劇の力
453 演劇の力
452 「こどものその」
451 農業政策の分岐点
450 抱きしめたい8月
449 “こころ”という代物
448 不良少“女の一生”
447 湯布院と博多祇園山笠
446 男おひとりさまの老後
445 ふるさときゃらばん公演
444 名古屋市に注目!
443 トップ人事と秘話
442 バロン・サツマ
441 「グラン・トリノ」
440 「パンデミック」
439 後輩X君へ
438 すべてが廃虚に
437 「法然と親鸞」
436 「ムサシ」
435 ヒトを選ぶ
434 闇社会・京都の影
433 笑うしかないか
432 ラジオと映画
431 通訳から作家へ
430 「生き急ぐ」内村剛介
429 携帯を忘れた旅
428 1枚の賀状から
427 “がん”からの生還
426 2人の恩人との別れ
425 育英基金構想
424 レッドクリフ
423 アパの真相
422 無冠の車椅子
421 画家 木下晋
420 科学者たちの楽園
419 救急精神病棟
418 紅とんぼ
417 極道記者
416 機先を制する
415 新・脱亜論
414 浜口陽三・南桂子
413 朝の靴音
412 “友川カズキ”を贈る
411 コンベンションビジネス
410 キューバ
409 信長
408 横付けサービス
407 脱・脱ダムと新幹線
406 ポスト消費社会
405 黒山もこもこ
404 ふり返る勇気
403 吹田事件
402 伏木・没落旧家
401 「じゃあな」




 涙が流れるのをこらえることができなかった。前にしたふたりは、亡くなった友人の奥さんと長男である。友人の葬儀は昭和62年だから、22年ぶりの再会。郷里・富山から遠く離れた浜松のお寺での、小さな葬儀だった。遺されたふたりの男子中学生がすすり泣き、運び出される棺に奥さんはすがりつくように泣き叫んだ。友は享年42歳、偉丈夫がやせこけるまでになっていた。10月17日、富山の寿司屋でのこと。寿司もビールも進まず、自然と友の話に及ぶ。知っていたつもりだが、想像を超えた過酷な試練に立ち向かっていたことに、いまさらながら打ちのめされた。
 胃がんでの全摘手術をしたのが31歳の頃。それから、さほど年月を経ていない日曜日であった。狭山の社宅から新宿に出て、久しぶりに家族そろっての外食である。帰ろうとした西武新宿駅の構内で、今までにない腹痛が走った。腹が膨れ上がる。とても耐えられそうにない痛みで、トイレに駆け込むも、しゃがり込むこともできない。救急車を呼んだが、大東京ではなかなかやって来ない。幼子ふたり(その頃は5歳と3歳)を抱える妻に「もうすぐ救急車は来る。お前達は帰っていろ」。有無をいわせない命令口調でいうので、従うしかなかった。救急車はやって来なかった。友は、その激痛をこらえて、狭山の社宅に辿り着く。家に倒れこむやいなや、激しい嘔吐が吹き上げるようであった。社宅で呼んだ救急車はやってきたが、専門医がおらず、救急病院で痛み止め対応だけだった。妻ははたと思い出し、浜松にいる夫の実兄に電話する。医師でもある兄は「腸閉塞だ。急がないと危ない」と、埼玉県立病院の知り会いの医師に連絡をしてくれ、担ぎ込む。それから、10時間以上かけた開腹大手術で、辛うじて命だけは取り止めた。その晩は幼子ふたりだけで夜を過ごしている。この時に、肺にも転移しているのが発見され、切除した。
 予後の生活は危ういものとなった。病院を経営する浜松の兄のもとでの生活しか選択肢はなく、住友建設の雇用も切れて、やむなく兄の庇護を受けいれた。その頃からである。夫の子供たちへの虐待に近いせっかんが日常化していった。特に長男に対してである。そういえば、見舞いを兼ねて訪ねた時「手術後、精神的なコントロールが効かなくなるんだ」と呟いていた。殴る、蹴るのあと、はっと気がついて、涙を流しながら、抱きしめて「ごめんな」という。心に大きな傷を負わないはずはなかった。
 生来の生命力は10年持ちこたえることになる。最期は、いつもの長いトイレから出た後だった。その時も、中3になっていた長男にトイレを譲った直後で、ふらっとして「おい」と声を掛けて倒れ込み、そのまま逝ってしまった。死因は心筋梗塞とされた。
 「そんな父でも好きでした」目の前の長男はいう。「残された体力で、土木の技術士に挑戦していました。夢は技術士事務所を持つことだったのです」遺された奥さんは、長い苦節を思い返すように言葉にする。
 さて、その晩である。気持の持って行きようがなく、ウィスキーをあおっていると、「死者よ来たりて、我が退路を断て」とのフレーズがよぎった。昭和43年、日大全共闘の立看板に大書されたものだ。この64歳には、退路と呼べるものはない。進んでいないのだから。むしろ、あるべき位置さえ定かではなく、退路も進路もない堂々巡りの時間つぶしの、穀つぶしよ、と自嘲していると、死者の目は鋭く光ったようにも見えた。「そんなつまらない人生を送っているのであれば、俺に寄こせ!ばか者よ!」。
 高校時代に机を並べた時、「大学への数学」がお気に入りの参考書で、「おい、こんな解き方があるぞ」と得意気に話しかけてくる顔がふと浮かんだ。舟木一夫の「高校3年生」を歌っては、涙を浮かべてもいた。
 思えば、遺された者といえば、みんなそうである。死者を持たないものなどいないのだ。そんな自明のことに、はたと気がつく夜でもあった。「死者よ来たりて、我が愚を断て」か。

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