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1964年夏、ひとりの若者がアメリカに留学した。千葉大医学部の大学院を終了し、コロラド州デンバーにある小さな研究所で、喘息の研究見習いということだった。月給は225ドル、その頃のレートは固定で360円だから、81,000円。当時の東京遊学の仕送りは2万円前後、典型的なアメリカ郊外にある老夫婦の家に、2階の部屋を借りての生活だが、余裕があった。初めて乗った飛行機での、初めてのアメリカ生活、見るもの聞くもの何もかも珍しく、有頂天の日々。ビートルズ、ベトラ・クラークが歌う「ダウンタウン」の軽快なメロディが、遅かった青春を彩った。
その若者は、長じて世界的な免疫学者となった。デンバーでの研究からひらめきを得て、71年に抑制T細胞の発見につなぐことができたのである。デンバーはまさしく「私の黄金の時」であると回想する。しかし、その黄金の時を彩ったのは、ダウンタウンの名もなき人たちだった。
下宿としたドイツ系老夫婦との交流も最初はぎこちなかったが、夫人が英語のレッスンを引き受けてくれたことから、深まっていく。料理の交換や、隣家とのパーティなど日常些細なことだが、それらを大切にしていた。彼女が心筋梗塞に倒れ、亡くなると葬儀の手配までしている。しばらくして生活になれた若者は、ダウンタウンにある労務者が集る居酒屋の常連客となる。カントリーウエスタンのバンドが入り、まるで西部劇の場面で見たような既視感もあり、危ないという警戒心よりも、懐かしさから引き込まれた。そこの太った50歳を越えたバーメイドのおばさんとの交流が綴られている。迫力満点で、居酒屋の喧嘩まで取り仕切っていた。何故か、若者に親しみを感じさせていた。数年後、学会の帰途に立ち寄り、そのおばさんを訪ねると、糖尿病を病んで失明をしていた。もちろん、再開発でその居酒屋の跡形はなくなっていた。そして、中華レストランでの日本人・チエコ。朝鮮戦争勃発で、横須賀基地にやってきていた米兵と知り合っての「戦争花嫁」である。子供ふたりを抱えて、捨てられるように離婚をして、働いていた。財布を忘れて、カードもなくて、どうしようかと思っていた若者に、チエコは黙って立て替えてくれた。そんな彼女も子供たちとうまくいかなくなり、うつ病を病み、自死してしまう。
名もなき庶民と、見知らぬ土地で、分け隔てなく付き合えるというのは、人生を豊かに生きる不可欠の条件といっていい。
世相と同じく落ち着かない日々にいらだっていたが、このエッセイにひととき救われる思いがした。ご存じ多田富雄教授のエッセイ集「ダウンタウンに時が流れて」(集英社)だ。「露の身ながら」「一石仙人」「寡黙なる巨人」と、わがブログには4度目の登場だが、やはり別格である。脳梗塞後に襲われてから8年余、がんをも併発しながら、左手のみで1日5時間キーボードを叩いての執筆である。それも、涙でキーボードが何度も見えなくなるまで、切実に思い出したデンバーの回想である。回想の魔術が、あのダウンタウンを目前に現出させてくれた、と跋にある。
前立腺がんを睾丸摘出手術で、腫瘍マーカーPSAを136から6に激減させ、正常値にもどしたくだりが、悲壮を通り越したユーモアだ。学生のころあんなに苦しめた性欲もこれで消し飛んだ。「ざまあ見ろ」という気持ちになった。といって、女性の美しさに関心を失ったわけではなく、感受性は元通りだが、みだらな気持は全く起こらない。何か重くのしかかっていた「業」のようなものが飛び去ったようで、軽快な気分だとも。深作欣二とは対極の聖人君子になってしまっている。そこで、はたと考える。生殖の役割を終えれば、無用の長物か。閉経と同じように、老年男もみだらな邪念から解放される時があってもいいかもしれない。実効としては前立腺がんから解放されることでもあるらしい。期せずして、宦官の出現だ。新しい文化が生まれるかもしれないのだ。戦いを好まない、平和至上の宦官老人「9条の会」ということになる。
07年10月18日、京都・東寺境内での野外能「一石仙人」に招いていただき、お目にかかった時の、車椅子ながら爽やかな多田さんの笑顔が思い出された。 |
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